洲本城の歴史

 洲本城の歴史について

 三熊山に最初に築城したのは三好氏の重臣・安宅治興であった。熊野水軍の頭領である安宅氏は、最初に由良(淡路島・洲本市)に城を築き、そこを本拠地として島内八箇所に築城をしたとされている。そして、そのうちの一つが洲本城である。時は室町時代の末、1526年(大永6年)で、当時洲本城は石垣の城ではなかった。治興の後は、その養子安宅冬康が入り、冬康死後は長男信康さらには二男清康へ受け継がれていった。

 その後、織田信長により、淡路島攻略の命令が出される。三好・安宅氏は永らく織田信長と対立していたが、同じく織田信長に対立していた松永久秀が信長に討たれると、安宅信康は本拠であった由良城を羽柴秀吉・池田元助らに明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城となった。(1581年)

 1582年、新たな淡路領主として任じられたのは仙石秀久(せんごくひでひさ)で、 由良城以下淡路の各城はその支配下に入ることとなる。仙石秀久は、四国攻めの水軍の城として、石垣の城を築き始める。その後、秀吉の九州攻めの際に軍律違反を犯して高野山へ追放された秀久に代わって、淡路国には脇坂安治(わきさかやすはる)が入り、新たな城主となった。脇坂安治は淡路水軍を吸収。 洲本城を改修して水軍の本拠地とし、豊臣水軍の中核を形成する。(この水軍が、後に北条氏の小田原城攻めで海上封鎖作戦を行い戦果を挙げることとなる。) 脇坂安治は、天守の造営、石垣の大改修などを行ったが、この際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。 慶長14年(1609)までの24年間の在城中、多くの増改築を行ったと考えられる。現在も残る洲本城の石垣は、脇坂時代に作られたものである。

 秀吉没後、関ヶ原合戦で徳川方についた脇坂安治は、徳川幕府が開かれると転封される。この際、洲本城の天守は移封先の伊予国(愛媛県)大洲城へ移築されたという説がある。大洲城と洲本城の大天守、小天守の配置が同じであることや、本丸石垣の大きさが同じであることなどから、この説に信憑性はあるものの、水軍を擁する脇坂安治とはいえ、果たして当時の技術力で天守の移動が可能であったのか?という疑問も残る。そのため、今の所はっきりとしたことはわかっていない。しかし、大洲はもともと大津とよばれていたものを、脇坂安治が大洲に読み替えたという古文書は残っており、そのため、この説を支持する者もいる。

 江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に洲本城は廃城となり、まず岩屋城次に由良成山城に居城する。

  1615年(元和元年)、淡路国は阿波徳島藩主である 蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に加増された。そして蜂須賀家家老の稲田氏一族が由良城代となるが、1631年から1635年にかけて由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移した。この移転は「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれ、1631年(寛永8年)から4年掛かりで由良城下を洲本へ移転させるという大規模なものだった。 この「由良引け」で由良城は廃城、洲本城が淡路政庁と定められ、明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることとなった。

 1642年(寛永19年)、山城は不要とされ、三熊山の麓に政庁機能を移転させた。 これ以降、山上の洲本城が使われる事はなかった。 明治維新により、洲本城は廃されたが、1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として 鉄筋コンクリート製の模擬天守を建造。ちなみに、この模擬天守は江戸時代の天守を復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。

  1999年(平成11年)1月14日、洲本城(本丸を含む山上の史跡)は国の史跡に指定された。また、現在は淡路文化資料館、裁判所、税務署となっている、かつての居城跡(三熊山麓にある史跡)も、洲本市の史跡に指定され、現在に至っている。

 このように、注意深くその歴史をみてゆくと、洲本城が歴史的にも学術的にも興味深い対象であることがわかるが、世間一般にあまり注目されてはいない。(地元淡路島でさえもそうである。)その理由としては、①江戸初期の一国一城令で天守をはじめとする建物が全て取り壊されてしまった。②秀吉にとって、兵站・防御拠点として機能し、非常に重要ではあるが、どちらかといえば縁の下の力持ちといった存在であった。そのため、歴史の表舞台に上がることがなかった。③城が直接軍勢に攻められたことがない。などといった理由がが考えられる。

淡路島 三熊山 洲本城の年表

年代出来事
1526年
(大永6年)
安宅治興が由良城をを本拠地として三熊山上に築城する。
1581年
(天正10年)
安宅氏が洲本城開城。羽柴秀吉・池田元助らに降伏する。
1582年
(天正11年)
由良城以下淡路の各城は仙石秀久の支配下に入る。四国攻めの水軍の城として、石垣の城を築き始める。
1585年
(天正13年)
仙石秀久に代わり、脇坂安治が洲本城に入城。以後、城の増改築を行う。
1598年
(慶長3年)
豊臣秀吉病死。
1600年
(慶長5年)
関が原の戦い。脇坂安治は徳川方に寝返る。
以後、本丸周辺の大改修を行う。
1609年
(慶長14年)
脇坂安治 伊予大洲城に移る。
洲本城は、藤堂高虎が幕府より預かりとなる。洲本には城代を置く。
1610年
(慶長16年)
幕府は、姫路城の池田輝政に淡路全土を与える。輝政の三男、忠雄が支配する。忠雄は洲本城に代えて、成山城、岩屋城を修築。大阪城の包囲体制を確立した。
1615年
(元和元年)
大阪の陣で、淡路国七万石は岩屋を除き、阿波徳島藩主である 蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)に加増される。
1617年
(寛永3年)
岩屋を含め、淡路全土が蜂須賀家の所領となる。
1631年
(寛永8年)
1631年から1635年にかけて由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移す。(由良引け)。由良城下を洲本へ移転させる。
1642年
(寛永8年)
山城は不要とされ、三熊山の麓に政庁機能を移転させる。 これ以降、山上の洲本城が使われる事はなくなる。
1928年
(昭和3年)
昭和天皇御大典記念として 総工費一万円、鉄筋コンクリート製で、四層四階の層塔型の模擬天守を建造。
1999年
(平成11年)
1月14日
洲本城(本丸を含む山上の史跡)が国の史跡に指定される。

現在

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